導入
一度採用した考えや方針を、あとから別の情報で誤りに気づいても修正・撤回するのは、驚くほど難しいものです。たとえば、チームで「この戦略でいく」と早期に宣言し、社内外に共有した後に、前提となるデータが崩れても方針転換を渋ってしまう。SNSで断言した主張を、後から訂正するのがつらい。個人の話に見えますが、実はもっと大きな「こと(構造)」が働いています。
直感的な理解
多くの人は、この難しさを「頑固」「プライド」「恥をかきたくない」「サンクコストに囚われている」といった性格や意志の問題として理解しがちです。証拠が出れば合理的にアップデートできるはず、できない人は非合理、と捉えやすい。しかし、目の前の意思決定だけに注目すると、背後で動いている仕組みを見落とします。たとえば、会議で強く推した案を後から引っ込めづらいのは、個人の面子だけではなく、環境や関係がその案に合わせて組み替わってしまうからです。
実際に起きている「こと」
この難しさは、個人の意志だけではなく、複数の構造が重なって生じます。ここでは4つの構造タグに沿って説明します。
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履歴(history)/パス依存: 最初に決めた考えが「既定値」になります。その後に集める情報、つながる人、使う道具や言葉が、その考えに合わせて最適化されます。結果として、後からの証拠も、すでに持っている物差しで解釈されやすくなるのです。例: 新規事業で「インフルエンサー中心の集客」と決めると、ダッシュボード、契約、チームのスキルがその前提で整います。別の経路(検索や紹介)の信号は、弱く見えたり「例外」と扱われがちになります。
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フィードバック(feedback)/自己強化: 今の考えを肯定する情報が増幅される仕組みが働きます。同調圧力、タイムラインの最適化、選択的接触、確証バイアスなどが、支持を集めやすくします。コミットメントはアイデンティティの一部になり、支持や承認が「報酬」として戻ってくるため、その考えを保つ行動が強化されます。例: SNSで強い主張をすれば、賛同の「いいね」やフォロワーの増加が戻ってきます。これが心地よいフィードバックとなり、立場を軌道修正するインセンティブが弱まります。
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摩擦(friction)/切替コスト: 変更には時間・労力・心理的な痛みが伴います。学び直し、関係者への説明、評判リスク、データやプロセスの移行など、コストが積み上がります。心理的摩擦(認知的不協和)、組織的摩擦(権限調整・合意形成)、技術的摩擦(互換性・移行工数)が合算され、切り替えの閾値が高くなります。例: プロダクトの方向転換を決めると、営業資料の刷り直し、顧客への連絡、契約の見直し、データ移行、チームの再編成が必要になり、短期的には痛みが集中します。
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不可逆(irreversibility)/巻き戻し困難: 公的な発言の履歴、標準化された手順、他の決定との相互依存により、完全な「元通り」は不可能か高コストになります。評判や信頼は一度傷つくと完全には戻りにくく、脳内の学習にも不可逆的な成分があります。例: 公式に宣言したロードマップを撤回しても、過去の資料や記事は残り、関係者の記憶も消えません。ソフトウェアの基盤設計を変えると、過去の拡張や外部連携が崩れ、完璧な巻き戻しはできないことが多い。
これらが重なると、システムは「行きと帰りが同じでない」振る舞いを示します。進むときに必要だった証拠量より、戻るにはより大きな力(証拠やインセンティブ)が必要になります。坂道を上がるときより、下りにブレーキがかかるイメージです。例: いったん導入した社内ツールを廃止するには、導入時より圧倒的に強い理由と根回しが求められます。
なぜ誤解しやすいか
- 直感のズレ: 私たちは信念を「その瞬間の選択」として切り出して見がちで、背景にある履歴やネットワーク、環境からのフィードバックを過小評価します。
- 見えないコスト: 外からは、説明・調整・学び直しの総コスト(摩擦)や、評判・制度・記録の巻き戻し困難(不可逆)が見えにくい。結果として、単なる頑固さに見えます。例: 外部の助言者は「すぐ方向転換すべき」と言いやすいが、現場の担当者は、顧客対応やデータ移行の現実を知っています。
- 解像度の問題: 全体の構造を粗く見ると、個人の性格に原因を集約しがちです。細かく見ると、情報の流れ、承認の仕組み、技術の相互依存など、複数の要素が絡み合っています。例: SNSでは支持・批判の指標が数値で可視化されるため、立場を保つ動機が強くなるという構造が隠れた原因になります。
他分野での同型例
- 社会・技術の標準ロックイン: QWERTY配列や電源プラグ規格は、初期採用という履歴が既定値になり、互換性・ネットワーク効果のフィードバックで広がり、切替の学習コストやインフラ更新の摩擦が積み上がります。既存設備や市場との相互依存により不可逆な側面が生まれ、より良い代替があっても移行が進みにくい。
- 生物の学習と習慣形成: 神経回路は経験の履歴に依存して強化され、報酬の戻り(フィードバック)で習慣が固定化されます。新しい行動への切替には心理的・神経的摩擦が生じ、臨界期やシナプスの刈り込みといった不可逆的な変化が戻りにくさを生む。例: 子どもの言語音の習得は時期を逃すと難しく、長年の行動習慣を変えるには強い動機と時間が必要です。
- 組織の評価制度: いったん設定したKPIは、現場の測定や報酬体系に組み込まれます。達成報告やダッシュボードがフィードバックとして働き、KPIに合わせた最適化が進む。変更には説明や再設計の摩擦が大きく、過去の評価履歴が不可逆に蓄積されるため、簡単には切り替えられません。
一言要約
つまり、この話は「信念は個人の意志ではなく、履歴依存と自己強化フィードバックが摩擦と不可逆性を積み上げ、切替の閾値を上げる構造の中にある」ということ。
履歴
フィードバック
摩擦
不可逆
生きもののこと